On Liberty 11
- scallopshcolarship
- 2024年7月22日
- 読了時間: 6分
更新日:4月28日
JOHN STUART MILL
On Liberty and The Subjection of Women / Edited by ALAN RYAN (PENGUIN CLASSICS)
読んだ箇所:On Liberty Chapter P106-P117
ついに最終章!
有害物質の売買、ギャンブル、男女関係、過度な飲酒などかなり身近な事柄を挙げて、自由と節制と法規制の問題について論じている。
現代にも通じる話ばかり。
経済的にも自由主義者で功利主義者な面が垣間見える部分も。
P107 …society admits no right, either legal or moral, in the disappointed competitors, to immunity from this kind of suffering.
最初に来たのは、競争の話。敗者なくして勝者なし。この場合、「敗者に不利益を与える勝者の自由を制限しろ」、という話にはならないよということ。
P107 …all restraint, qua restraint, is an evil: but the restraints in question affect only that part of conduct which society is competent to restrain, and are wrong solely because they do not really produce the results which is desired to produce by them.
(商取引に関する)制限のための制限はすべて悪である。ただし、社会的に妥当な制限については、それによって意図された目的が達成されていない場合のみ、誤りである。
P108 Such questions involve considerations of liberty, only in so far as leaving people to themselves is always better, caeteris paribus, than controlling them:
(労働者の命と健康を守ることや、粗悪品が偽って売られることについて)規制をかけるよりも自由に任せた方が常に良い結果が得られる場合のみ、自由にするべきである。
つまり、“規制を設けた方がそうでない場合よりも良い結果が得られる”ということが規制する根拠であり、規制したのに目的(より良い結果)が得られないならそれは誤った規制である。結果重視なのだ。
P109 Such a precaution, for example, as that of labelling the drug with some word expressive of its dangerous character, may be enforced without violation of liberty: the buyer cannot wish not to know that the thing he possesses has poisonous qualities.
次は毒物の売買について。ミルのアイデア。毒物ということを表示して、購買者に知らせる。知らされない自由はない。
P110-111 Again, there are many acts which, being directly injurious only to the agent themselves, ought not to be legally interdicted, but which, if done publicly, act a violation of good manners, and coming thus within the category of offences against others, may rightfully be prohibited.
個人的な堕落は法律で禁止するようなことではないが、それを公然と行うとなると話は別で、公序良俗に反する行動は禁じることができる。
似た話が後にも出てきて、賭博するために集まるのは自由だけどそういう場所はそれをやりたい人たちだけの会員制にするべきで、その存在が一般の人にはわからないような秘密にしておくべきだとか。
P111-113にかけて、お酒などの嗜好品で、度を越した摂取が本人の害になるものを扱う業者はそれを消費者にどんどん使わせていいの?という話をしている。
P112 There can surely, it may be urged, be nothing lost, no sacrifice of good, by so ordering matters that persons shall make their election, either wisely or foolishly, on their own prompting, as free as possible from the arts of persons who stimulate their inclinations for interested purposes of their own.
P113 The interest, however, of these dealers in prompting intemperance is a real evil, and justifies the State in imposing restrictions and requiring guarantees which, but for that justification, would be infringements of legitimate liberty.
お酒などを嗜むときはそれによって利益を得る業者などの誘導に流されず、自分の意思で選択しましょう。業者が過度な飲酒をさせることで得る利益は悪なので規制もやむなし。
P115前半部分は解釈が難しい。
労働者階級がお酒を容易に入手できないように、酒場の数を制限するというのは妥当でないという文脈で、
① 制限によって自由を奪うのは、労働者階級の市民を子ども扱いしている。
“education of restraint” “as children”
② 自由のための教育を施して、彼らを自由民として扱うべきである。
“educate them for freedom” “as freemen”
二つの選択肢を示しつつ、“the bare statement of the alternative shows the absurdity of supporting that such efforts have been made in any case which needs be considered here,”と続く。主語は『代替案(上記②)についてわずかしか言及しないこと』?そんでsupporting以下は『ここで挙げられたような事例に対する必要な努力は既に行われている』で、そう考えることはバカげている、と。
つまり、「労働者階級を(お酒などの嗜好品を自分の判断で嗜むことのできる)自由な市民たらせるための教育の努力が既に尽くされていると考えるのはばかげている、それは上記②案がわずかな支持しか得られていないことが示している」みたいな意味かしら。
この後の文章で、「イギリス社会は専制的・父権的に統治されている一方で、倫理教育としての効果を持つ制限が課されるのを不可能にするような自由の解釈が一般的に行われている、イギリス社会は矛盾の塊である」というようなことが述べられている。
これまでの章で出てきた話とも合わせて考えると当時のイギリス社会は個人の領域に国家権力が介入することに強い反発があった一方で、多数派の世論による支配があったようなので、世論による支配は専制的、でも国家権力が教育的配慮とか公序良俗のためとかで市民の暮らしに制限をかけるのは断固反対!ていう感じだったんかな。そこに対してミルは自由に行動するためには一定の能力が必要であり、それを獲得させるための教育は社会がやるべきじゃないのか、と主張しているんではないかしら。どうですかね。
P115後半からは、個人の自由を拡大解釈して、個人間の合意・契約についても第三者に害がない限り自由である、という話になっていく。
興味深いのが、①奴隷契約のような、個人の自由を放棄する契約は無効、②個人間の関係性や服務に関する契約で期限の定めのないものは無効、という具体的な言及。①は、この本はOn Libertyなので、当然そうなる。②はすぐに結婚の話になり、基本的に、当人達にもはや結婚生活を維持する気がないなら自然と離婚となる、だけど片方が婚姻関係の維持を期待しており、それに生活を頼っているなら、もう片方にも道義的な責任があるんじゃないの?とか、子どもという新たな利害関係者が生まれていたら、そこには一定の配慮が必要だよね、とか。
感想
すごく具体的な話ばかりで面白かった。
お酒は若いのに依存症になっちゃうような人もいれば、高齢になっても宴会大好き、お酒が長生きの秘訣や~みたいな人もいるから、お酒に関わる一人一人に大人としての対応が求められるところよね。近頃は昔に比べてお酒は有害って見方が強まっているみたいで、毎日飲む人は少数派なんかなぁ。
業者が過度な摂取を奨励すべきではないことや自分の判断で嗜むということ、その前提に教育が必要なことなどは、あらゆることに言えるなぁ。第3章の「自分のやりたいこと、自分の性に合っていることを自分で選んで、自分の幸せを追求する。それが一番、個人の能力を成長させる。」って話もそうだけど、教育的な示唆に富んでるんよ。ミルの父親はミルの個人的な教師だったけど、ミルも人類に対する教師だわ。
前回、前々回と『ミルさんよ、中国にアヘン流した東インド会社社員として道義的責任を感じないんですか?』ってことを書いたけど、たぶんミルはこう反論するな。「中国の社会が、中国の市民に対して教育をして、大人の責任で吸うなら吸いなさい。社会的に許容できる範囲で嗜まれるために売ったのであって、社会を弱体化させる意図はなかった。」違ってたらすみません。
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