On Liberty 9
- scallopshcolarship
- 2024年7月11日
- 読了時間: 4分
更新日:4月28日
JOHN STUART MILL
On Liberty and The Subjection of Women / Edited by ALAN RYAN (PENGUIN CLASSICS)
読んだ箇所:On Liberty Chapter Ⅳ P85-P96
内容が濃いので第四章途中でいったん区切り、中間まとめ。
まとめ
個人の自由と社会(家族や友人から他人まで含めた周りの人)が対立するときについて。
まず前提として、他人を傷つけたり損害を与えたりする行為はだめで、行った場合相応の罰を受けることになる。
また、共同体の一員として課せられる義務も果たさないといけないし、果たせない場合は相応の罰を受ける。
微妙なのが、周りの人が良く思わないことだけど、他への実害はないもの。
これについて、周りの人が本人に「それ良くないと思うよ。」と言うのはかまわない。いやだなぁと思って避けるのも問題ない。
本人が軽蔑されて、周りの人から仲間としての親切な扱いを受けられなくなるのは仕方ない。これは罰ではなく、一般によく思われない変わったこと・節度のないことをする人が直面する自然な反応で、変人と普通人間がお互い自由に行動して共存している状態と言える。
ただミルは良識人なので、prudence, self-respect, duties to ourselves, self-development などに言及し以下のように述べている。
P89 for none of these is any one accountable to his fellow-creatures, because for none of them is it for the good of mankind that he be held accountable to them.
自分自身の思慮分別について周りの人間に説明する義務はない。人が責任を負うべきは人類全体の善に対してであって、周りの人間に対してではない。
(…訳あってる?感銘を受けたんだけど、全く逆の意味で”人類全体の善について個人に責任はない”だったら恥ずかしいなぁ…。)
ミルは、自分自身を害するような思慮分別のない生活をしている人はそれによって自分の人生を台無しにしているので、周りの人間が罰を与えるなど、さらに彼の人生を損なうようなことをしてやろうと考える必要はないという。
ちなみに、自分の人生を台無しにするだけで終わらず他人に迷惑をかけた場合は、その他人に与えた損害について個別具体的に責任をとるまたは罰を受けるべきであって、その原因になった本人の自由の範囲内の不摂生・不道徳な事柄は、他人から非難を受けるのはやむなしとしても罰や責任の対象外である。
直接の害を被っていないのに他人の生活に干渉するのはだめで、不愉快に感じたり間接的な不利益(社会の秩序が…全体の生産性が…とか)を被ったりしてもそれは許容しましょう、と。人類の自由のためだから。
(P93 the inconvenience is one which society can afford to bear, for the sake of the greater good of human freedom.)
じゃあひどい生活を送っている人に対して周りができることはないの?そうではない。まず、アドバイスするのは周りの人間の自由だし、非難する自由もある。何より、社会はその一員が大人になる前に教育を施すことができるので、そこで人類の教訓を知らせることができる。これらの周りの反応や教育にも関わらず身を持ち崩す人がいたら、それはもう本人の自由である。もしかしたら、周りから見て本人のためにならないように思えることでも、本人にとっては悪いこと以上に良いことがあってやっているのかもしれない。
“善いこと”を他人に押し付けても、本人にとって善いか悪いかわからない。本人にとっての“善いこと”は他人に決められない。
感想
意見を財布に例えて、人の善悪の基準を勝手に取り上げるのは他人の財布を盗むようなものだと書いていたのが面白かった。
周りから見てひどい生活や行動でも、本人に取っては不利益以上の利益があるかもしれない。というところで、依存症や摂食障害が思い浮かんだ。薬物依存みたいに因果関係も原因物質も明解な場合は別として、原因がもやっと複雑・心理的なやつ。よく家族関係や人間関係が原因ではないかと言われるけど、はっきり立証することはできないという。こういうのは、本人の心と命を損なっているように見える行動でも、本人は生きるためにやっているんだろうな。こういうのは、教育等で予防できるんだろうか?
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