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やる気がなくなる時期がある。そういうときはついつい怪談のYouTubeで何時間も使ってしまう。
オカルト好きの私が読書をサボり、久しぶりに自分の頭で考えたこと。


死生観という言葉があるように死に対する見解は生き方に深い影響を及ぼす。
私の思いつく死に対する見解は以下の3パターンだ。
A 死後の世界はない。
B 死後、魂は輪廻転生する。
C 死後の世界で、生前の魂が何者かによる裁きにあう。
Aの場合、生きる目的や意味については各自で見つけることになると思う。
Bの場合、死んだご先祖様の魂が蝶になって…とか、独身時代に飼っていたペットが生まれ変わって自分の子どもに…!?とかで、人間も動物も、命あるものは繋がっているという考えにいきやすいかなと思う。
Cの場合は、生前の行いの成果として死後の状態があり、しかも人間を超越する何者かいてその者の判断に委ねられるときたら、当然生きている間にその者の判断基準を知って、死後の裁きに合格できるように努力したいと考えると思う。


話を社会に変えると、預言者って世界中に出現するけど、これは人間を超越する何かが存在するというパターンで、それが預言者を通じて民に指導をするということなのでCパターンと親和性がある。
つまり、預言者が民を導くようになると宗教的共同体ができるので、そこには自ずと政治・統治の問題が生まれる。
預言者は人間なので、民が集団で反抗して暴力などに訴えてきたら勝てない。
そこで、民に信仰を守らせることと統治の安定および自らの地位の保全が直結する課題となる。
どうするか。死によって脅迫するのではないだろうか。
「死後の世界で地獄に堕ちる」か「信じないなら共同体から追い出す、もしくは殺す」か、程度の差はあれど迫害や脅迫で強い信仰を維持させる。
一方で、預言者が民に強いプレッシャーを与えて生活を縛るとその反動も激しくなり、鬱憤が爆発した民によって排除されることもありうる。

預言者を排除した民はどうするだろうか。
信仰心が残っているなら、超越者による罰を恐れるだろう。
排除したことの理由として「あの預言者は偽物だった」ということにするかもしれない。そして新たな預言者を求める。
また、強い罪悪感や不安に襲われて一層信仰心を強めるかもしれない。
もはや信仰心を失っているなら、新たな生き方に移るだろう。
そんなことを繰り返して時代は下っていく。



以上は信仰心のない私の空想です(急に敬語。誰に対して。)。
宗教戦争や確信犯的犯罪をするくらいの信仰心って、超越者に対する強い畏れや死と生(死後の世界と生前の世界)を天秤にかける死生観を持ってないと生まれないのではないかと考えてしまう。もちろん、そのような人が多い社会でも本心では信じていない人もいるだろうけど。

信仰の自由は死生観の自由であり、命と生き方を他人に支配されないための基本的な権利だと思う。

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